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敗軍の将は兵を語らず???
2013-07-17 Wed 00:34
「敗軍之將,不可以言勇」(敗軍の将は、以って勇を言うべからず)

 選挙戦などで惨敗したりすると、その党の幹事長などが「敗軍の将は兵を語らずだ」などと言ったりした。「兵を語らず」などと言うと、なんだかかっこよく聞こえるし、言い訳もしなくてすみ便利なのは確かだが、下の 『淮陰侯列傳』 からの引用を見ていただければおわかりのとおり、本当は「勇を言うべからず」 というのが正しい。

 選挙戦であれ、野球のペナントレースであれ、あとで実戦を振り返って、敗因を分析するのはよいことであって、「兵を語る」のはむしろ奨励されるべきだろう。

「臣聞敗軍之將,不可以言勇,亡國之大夫,不可以圖存。今臣敗亡之虜,何足以權大事乎!」

臣聞(き)く、敗軍の将は以って勇を言うべからず。亡国の大夫(たいふ)は以って存(そん)を図(はか)るべからず。今、臣は敗亡(はいぼう)の虜(りょ)なり。何(なん)ぞ以って大事を権(はか)るに足(た)らんや。

 漢の将軍韓信が、「背水の陣」を布いて趙の国を破った時に、「広武君は殺すなと命じて、千金の懸賞をかけて生け捕りにした」ということは、前回の「背水之陣2(背水の陣/絶対に用いてはならない戦術)」で述べたとおり。広武君は名高い兵法家であった。

 韓信は、広武君を先生として尊び、今後の軍略を尋ねた。
 「私は、これから北方の燕を攻(せ)め、東の斉を討伐しようと思います。どのようにすれば成功しますか?」

 その返事が、上の「不可以言勇」(以って勇を語るべからず)。

 注意点は、「べからず」。これは「勇を言ってはいけない」ということではなく、「言えない」という意味。敗戦によって捕虜となった身で、今後の軍略を語るほど図々しくないということである。

 蛇足になるが、漢文の「可~・不可~」「~べし・~べからず」と訓読するが、その意味は、
 状態を考えたうえ、「これならできる・これではできない」と認定する表現である。(または、状態をよく見定めたうえ、「これならよい・これならだめだ」と認定する表現)

 論語の「民可使由之、不可使知之」(民はこれに由らしむべし。これを知らしむべからず)- の「知らしむべからず」というのも、「知らせてはならない」という意味ではなく、「知らせること(理解させること)はできない」という意味である。
 →
「儒家と墨家 - 漢字家族」を参照!

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背水之陣2(背水の陣/絶対に用いてはならない戦術)
2013-07-14 Sun 16:44

【背水之陣】 背水之陣2(背水の陣/絶対に用いてはならない戦術)

 「背水の陣」を効果的に用いて大勝利をおさめたのは、漢の総司令官 韓信将軍 である。

 漢の功臣の中でも、三傑といえば、①参謀の張良(チョウリョウ)、②漢の民生家であり、戦時には後方でいっさいの補給を担当した蕭何(ショウカ)、③総司令官の韓信(カンシン) のことである。
 「漢の三傑」と呼ばれるが、中国史上最もすぐれた三人であることに異論はないだろう。

 そのうちの一人、韓信将軍は、②の蕭何に「国士無双」と呼ばせたほどの天才である。が、この作戦を用いた時期は、まだそこまで人々に認められていたわけではなかった。むしろこの「背水の陣」こそが、彼の華々しいデビューと言うべきであろう。

 この韓信将軍、軍事の面においてはその天才を発揮するが、どういうわけか政治感覚の面で欠けるところがあり、それが彼の弱点でもあり魅力でもある。数々の功績を残しながら、最後には強欲な劉邦や呂后に殺されてしまう。しかも本人だけではなく「三族皆殺し」という酷い刑罰であった。
 最期に「狡兎(コウト)死して良狗(リョウク)亨(に)られ、高鳥(コウチョウ)尽きて、良弓(リョウキュウ)蔵(かく)し、敵國破(やぶ)れて、謀臣亡(ほろ)ぶ」と悟ったが遅かった。
 『狡兔死、良狗亨、高鳥盡、良弓藏、敵國破、謀臣亡』
 
 さて、そのまだ無名に近かった韓信将軍が、魏を陥落させた後、趙に向かった。趙王歇(アツ)の軍勢は三十万の大軍、宰相は成安君陳餘(セイアンクン・チンヨ=陳余)。対する韓信の兵力はたったの三万。その差は歴然としている。

 しかも、韓信の軍は、これから千五百メートル級の太行山脈の合間を越えなくてはならない。また、その途中は岩石のそそりたつ険阻な山道ばかりで、「井陘口」(セイケイコウ)という、馬車を並べて走ることも出来ないような狭い谷間を通らざるをえない。これは致命的である。なぜか。それは、次の広武君李左車(コウブクン・リサシャ)の言葉を聞けば分かる。

 趙の軍師である李左車が、陳余に進言した。
 「井陘の道は、車は二列に並ぶことができず、騎兵も列をつくれません。行軍は数百里の長さとなり、輜重(シチョウ・軍隊が必要とする兵器・食糧など)は、はるか後方に遅れるでしょう。私に三万の騎兵を与えてください。そうすれば間道より抜けて敵の後尾を襲います。さすれば敵は進退きわまり、飢え疲れて死んでしまいます。十日以内に韓信と張耳の首を取ってご覧に入れまする」

 このとおりやられてしまうと、どうしようもない。しかし、韓信は敵地に忍ばせてあった間諜から情報を得ていた。広武君李左車の進言は容れられなかった。儒家の出身で実戦のわからない陳余に退けられたのである。
 「わしは詐(いつわ)りがきらいじゃ。あくまで正道でまいろう」
 儒者でええかっこしいの陳余は言った。

 「しめた!」とばかりに、韓信は安心して井陘口を通ることができた。
 ようやく山脈の中心部を突破して、東の大平原が見えてきた時、韓信は諸将を幕下に集めて策をさずけた。
 まず、二千の兵を山ぞいに進ませ、趙の防壁(前線のとりで)の見えるところにひそませた。兵には二千本の赤旗(漢軍のしるし)を持たせておく。
 まだ夜明け前であったが、本隊の兵にかんたんな食事をさせ、
 「今日は、趙軍を打ち破ってから朝飯にしよう!」
 と言った。
 これを聞いて、他の将軍たちはあきれてしまった。これから、あの大軍にこの小部隊でたちむかうというのに「朝飯前に敵を破るだと?」ほらを吹くのもいいかげんにしろ。と誰も韓信の言葉を本気にしなかった。

 韓信は「朝飯前・・・」の演説の後、主力の軍を進ませ、川を背にして陣を布(し)いた。これが夜明け前。
 この様子を見た、敵の将軍たちは大笑い。水を前にし、山を背にするのが布陣の基本である。「韓信は兵法の初歩も知らない」とあざ笑ったのであった。

 一方、韓信は感心にも自ら先頭に立ち、大将旗を高だかと掲げ、手兵をひきいて趙の大軍の正面に打って出た。

 趙の方では、兵力に圧倒的な差がある上に、敵の大将は素人だとバカにしている。なめきっているから、「ひともみにもみつぶしてくれよう」とばかり、とりでの入口を開いて、どっと大軍を繰り出した。大将が自ら先頭に立つなど前代未聞、手柄はいつ取る?今でしょ! と城を空にして全将兵が大将首をめがけて突撃した。

 韓信は引いた。わざと逃げたのである。これも作戦のうちだから本当は強いのだ。ついに主力の線まで下がる。主力軍の兵たちは、後ろが川だから、これ以上一歩もひくことができない。必死に踏み留まって抵抗する。

 その時、山中の伏兵が、趙のとりでが空になったのを見て、どっと防壁を突き破り、壁上の趙の旗をなぎ倒し、いっせいに漢の印である赤旗を立てめぐらせた。二千本の赤旗がひらめいて揺れる。

 必死に抵抗する漢軍にてこずっていた趙の兵たちは、趙のとりでに赤旗がひらめいているのを見て絶望した。
 「あれー!趙は負けてしまった。お城はすでに漢に占領されてしまったぞ!趙王はすでに虜になってしまったんだ」
 と、趙軍は浮き足だし、乱れに乱れて、皆遁走してしまった。

 こうして韓信は、趙王を捕え、趙の宰相陳余は乱戦の中で戦死した。ただし、韓信は趙王の一族である広武君は殺すなと命じて、千金の懸賞をかけて生け捕りにした。
  「敗軍の将はもって、勇をいうべからず」(臣聞敗軍之將,不可以言勇,亡國之大夫,不可以圖存)

 一日の戦いが終わって、諸将が続々と韓信の幕舎に集まってきた。

 諸将は聞いた、
 「兵法には、山稜を右背に控え、川沢を左前にして陣す-とありますが、大将軍は、我らに川を背にして陣を張らせて『明日は、趙を破ってから朝飯にしよう』と申された。我らはみな、ふしぎな戦術よ、と腑に落ちず、心中不服でござった。しかるに今日の大勝、これは何と申す戦術でござりまするか」

 韓信、答えて曰く
 「これも兵法にあるのじゃよ。-これを死地に陥(おと)してのち生き、これを亡地に置きてのち存す-とな。わしは新参の大将にて、子飼いの将兵もおらず、市井(シセイ)の民を駆り出して戦わすようなものじゃ。さればこそ、わざと将兵を死地に置いて、人びとそれぞれの才覚に任せて戦わすほかなかったのじゃ。もし万全の策をとっておれば、皆とっくに逃げておったであろうよ」

 種明かしは、韓信が答えたとおりである。
 だが、間違ってはいけない。
 「死に物狂いになったから勝った」のではない。
 「背水の陣」は、烏合の衆がちりちりバラバラにならないようにするための一つの方策であり、戦術のうちのほんの一部なのである。
 韓信としては、別働隊が奇策(赤旗をはりめぐらせる)をやり遂げるまで、少しの間(兵士にしてみれば長い戦闘だが)持ちこたえてくれればよかったのである。また、敵に「侮りの心」を生じさせる作戦でもあったのだ。
 「必死になって闘う」というのは、作戦のうちのほんの小さな一要素であり、この一要素だけを頼りにして全軍の運命をかけるということは絶対にありえないことだ。だからその場面だけを見て、本当の策戦をしらなかった人々は韓信をあざ笑ったのであった。「兵法の基本も知らない」と。

 けれども、本当に兵法を深く理解しているのは韓信の方だった。他の人々は「兵法」をマニュアルとして、表面だけなぞるやり方で勉強をしていたのに対し、韓信は兵法を深く読みこみ、その真髄を理解していたからこそ、応用問題が解けたのである。

 テキストの表面だけサラーッと拾い上げ、形だけ真似をするやり方だと、「生兵法は大怪我のもと」どころか、時としては「致命傷」となる。

 韓信は、いくつかの条件が重なって、しかたなく「背水の陣」を布いた。しかもそれを「致命傷」にしない、有効な策を縦横無尽にめぐらせて、その効果を最大限に引き出した。

 韓信以外の人が、「背水の陣」を布くのは感心しないし、ただのやけくそ戦法で玉砕するのみ。絶対に用いてはいけない戦術です。

 →背水之陣(背水の陣/絶対に用いてはならない戦術)

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背水之陣(背水の陣/絶対に用いてはならない戦術)
2013-07-07 Sun 11:19
【背水之陣】

 日本人好みの言葉であり、よく使われる。
 「これが最後、いよいよ背水の陣だ!」と悲壮感をただよわせ、時には他人に対しても「今度こそは、背水の陣でのぞみなさい!」
 などという。
 絶対に後ろに引かない覚悟で、いちかばちかの成敗をかけて一発勝負にでることである。
 しかしこの言葉、こんなに気軽に使ってもらってはこまる。「背水の陣」は最悪の布陣であり、「全滅」を免れない戦術なのである。

 『尉繚子』にも、
 「背水陣為絶地,向阪陣為廢軍」(水を背にして陣するを絶地<絶体絶命の境地>となし、阪<坂>に向かって陣するを廃軍<敗軍>となす)
 とある。

 だから、兵法では山を背にして、川を前にするのが定石である。敵が川を渡って疲れたところを迎え撃つのがもっとも勝ちやすい。

 その逆に、水を背にして陣をとれば敵は前にあって、水が後ろにある。退却しようにも水に溺(おぼ)れるから、それ以上退却することができない。だから、それほど強くない兵隊でも、すすんで戦い、決死の覚悟で敵を破ろうとする・・・という。

 しかし、実際はそんなに甘いものではない。
 いくら「決死の覚悟」でのぞんでも、戦術がまずければ必ず負けるのである。政略も、戦略もなにもなければ、なおさらのこと。兵隊の「覚悟」や「勇気」だけにたよる戦術など、「戦術」とも呼べないおそまつなもので、決死隊として突撃させられ、無駄死にさせられる兵士たちの姿を想像すると無惨きわまりない。「背水の陣」は「百戦百敗」の布陣なのである。

 ところが、この「背水の陣」を布(し)いて大成功をおさめたのが漢の韓信将軍である。

 では、「百戦百敗」の布陣でなぜに勝利を得たか?

 というのが今日のテーマのひとつ。

 少しつかれたので、続きは後ほど・・・

 [背水之陣2(背水の陣/絶対に用いてはならない戦術)]

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刎頸之交(刎頸の交わり/ふんけいのまじわり)
2013-07-06 Sat 12:47
 たとえ、頸(くび)を切られても心をかえないほどの、真実の親しい交わり。生死をともにする親友。

 「和氏之璧(かしの・ヘキ/たま)」
 「連城の璧→完璧(レンジョウのヘキ・カンペキ)」

 に登場した、廉頗(レンパ)将軍と藺相如(リンショウジョ)のお話から出た言葉。

 とかく、文官と武官というものは仲の悪いもので、日本の例をみても、
 太閤秀吉の家来でいうと・・・

【Aグループ】加藤清正・福島正則など
【Bグループ】小西行長・石田三成など

 両グループは仲が悪いことで知られている。

 趙の恵文王は立派な家宝「和氏の璧」を持っていた。秦の昭王がそれを欲しがって、十五城(十五の領地)との交換を申し出た。これがいわゆる「連城の璧」で、十五の城(領地)を連ねるほどの値打ちがある家宝。その時の外交談判を買ってでたのが藺相如であり、璧を無事に完(まっと)うして帰ったことは「連城の璧→完璧(レンジョウのヘキ・カンペキ)」で紹介したとおり。

 この功労によって藺相如の位は、武官で野戦組の将軍、廉頗(レンパ)よりも上になった。

 おもしろくないのは廉頗将軍。「攻城野戦の功績がある自分が町人上がりの舌先三寸の男の下に居るとは残念だ。藺相如に会ったら辱(はずか)しめてやろう」といった。

 それを聞いた藺相如は、廉頗将軍と列席する必要のある時は、仮病で欠席した。また外出時に将軍を遠くに見かけると、車の方向を変えてかくれた。

 藺相如の家来たちは口惜しがって恥じたので彼はいった、
 「強国の秦(シン)をも恐れないで、秦王をしかりつけ国威を輝かした自分が、なんで廉頗将軍だけを恐れるものか。秦が強大な兵力を持っていながら、趙に手出しできないのは、この国に我々両人がいるからではないか。今両虎共に闘(たたか)えば、その勢いは、ともに生きない。だから国家の危急を大事だと思うから個人的な怨(うらみ)なぞは後回しにしているのだ」
 と。

 これを聞いた廉頗は、はだ脱ぎになり、いばらの鞭(むち)を背負って藺相如の邸に行き、「これで打ってくれ!」と謝罪して「刎頸之交」を結んだ。

相如曰:「夫以秦王之威,而相如廷叱之,辱其戝臣,相如雖駑,獨畏廉將軍哉? 顧吾念之,彊秦之所以不敢加兵於趙者,徒以吾兩人在也。今兩虎共闘,其勢不倶生。吾所以為此者,以先國家之急而後私讎也。」廉頗聞之,肉袒負荊,因賓客至藺相如門謝罪。曰:「鄙賤之人,不知將軍寬之至此也。」卒相與驩,為刎頸之交。

・・・今、両虎共に闘えば、その勢、ともに生きず。吾の、これを為すゆえんのものは、国家の急を先にして、而して、私讎(シシュウ)を後にすればなりと。廉頗これを聞き、肉袒(ニクタン)して、荊(ケイ)を負い、門にいたって罪を謝し、ついに刎頸の交わりを為せり。
(史記卷八十一廉頗藺相如列傳第二十一)

 それにしても、廉頗将軍。怒り方といい、謝罪の仕方といい、いかにも直情径行型の体育会系ですね。

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連城の璧→完璧(レンジョウのヘキ・カンペキ)
2013-06-30 Sun 16:06

「完璧」(カンペキ)とは、「人から借りたものを大切に返すこと」というのがもとの意味。
熟語の直訳は、「完全な璧(ヘキ)」「完全無疵(むきず)の璧」。
由来は、藺相如の「完璧而帰(璧を完うしてかえる)」から。

「璧」(ヘキ)というのは(ギョク)の一種で、環状をなしている玉。(→「和氏之璧(かしの・ヘキ/たま)」の注を参照)

「ぎょく」というのは、丸い「たま」とは限らない。翡翠(ヒスイ)・瑪瑙(メノウ)などの半透明な石のこと。

「完璧」という言葉は、戦国時代、趙(チョウ)の藺相如(リンショウジョ)という外交官の話に由来する。

秦の昭襄王(ショウジョウオウ)は、武力で趙に迫り、趙の恵文王が手に入れた天下の名宝「和氏の璧」(カシのヘキ)と、十五城との交換を申し込んだ。

「城」といえば、日本人はいわゆる「おしろ」、すなわち大阪城や姫路城のような、天守閣のある建築物を連想してしまうが、中国の「城」は違う。
中国で「城」といえば、「万里の長城」を見ればわかるように、国全体・領土全体を囲む城璧のことであり、また城璧に囲まれた領域全体を指す。

始皇帝が登場する以前は、中国は現在のヨーロッパのように、いろんな国に分かれていた。「城」といえば、その国々を指すこともあるし、飛び地の領土を指すこともあるし、内城をさすこともあるが、とにかく城璧に囲まれた広い範囲全体が「城」であることにかわりはない。

だから、西施のことを「傾城(ケイセイ)の美女」と呼ぶが、「傾城」「傾国」は同じ意味だから、「傾城の美女」「傾国の美女」なのである。

余談が過ぎたが、「連城の璧」というのは、十五の領土に匹敵するほどの値打ちがある宝石という意味。すごい宝物だ。

その宝石に食指を動かしたのが、秦の昭王。(「食指動く」はまた別の項で)

なにしろ、強国となりつつある秦のことだから、趙の恵文王としては、その申し出を断るのも恐ろしく、またダマされてお宝だけまきあげられるのもこわい。承諾するのを躊躇した。

その時、藺相如が和氏の璧を持って秦の国に行きたいと申し出た。
「秦にダマされて、十五城が手に入らないときは、璧を完全な形で持ち帰りましょう」--『完璧而帰!』(ヘキをまっとうしてかえらん)

藺相如は璧を擁して使いした。
昭王はやはり、十五城を与えるつもりはなく、璧をただ取りしようとした。
そのことが判明した瞬間、藺相如は「髪は怒りで逆立ち、冠を突き上げた」
すかさず、藺相如は
「その璧に疵(きず)があるから、しらべます」
と言って和氏の璧を手に取り、サササーッと後ずさりして、
「柱にぶっつけて璧を砕(くだ)き、いっしょに自分の頭も壊(こわ)す!」
と言った。
そして、こっそり使者に璧を持ち帰らせた。

藺相如自身は死を覚悟して、秦の処分を待った。が、秦の昭王は「賢臣である」として藺相如を趙に返した。

こうして、藺相如は完璧(カンペキ)に、その役割を果たしたのでした。

恵文嘗得楚和氏璧。 秦昭王、請以十五城易之。欲不与畏秦強、 欲与恐見欺。藺相如願奉璧往。「城不入、則臣請完璧而帰。」既至。秦王無意償城。相如乃紿取璧、怒髪指冠、卻立柱下曰、「臣頭与璧倶砕。」遣 従者懐璧、間行先帰、身待命於秦。秦昭王賢而帰之。

『十八史略』巻一(原典)


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